孔慶東が『遥遠的高三八』で書いたとおり、わたしたち2000年代生まれの世代は、温室のなかで幼年期を過ごしながらも、師を敬うことを誰よりも知っている。その敬意は、表面的な礼儀や謙遜にとどまるものではなく、心の底から湧き出る好意と敬愛である。それゆえ、わたしたちの教師への「敬」は、時としてまさに「不敬」というかたちをとって表れるのだった。
果てのない苦海のただなかで、わたしたちは、肉眼ではほとんど見分けられない教師のささいな仕草を嬉々として観察し、いかにも本人らしい口癖を真似、非公式の名誉称号を進呈した。そのすべてのおかげで、級友のあいだでは、まなざしひとつ、仕草ひとつ、抑揚ひとつでたちまち心が通じ、やがて微妙で、どこか下卑た笑みがこぼれるのだった。そして一人ひとりの人民教師は、わたしたちの脳裏で淡い輪郭から鮮明なホログラムへと姿を変え、しだいに血肉を備えて、生涯忘れがたい生きた像になっていった。
1、よその班
一中の高三強化部の教師たちは、その多くが徳と才を兼ね備え、遠近に名を知られていた。とはいえ、幾人かの名物教師は、時に人を驚かせる挙に出ることがあった。たとえば西どなり、物生28班の猛哥である。歩けばティーガー戦車のごとく、足は地を離れず、浮遊するようにわが班の戸口の前を通り過ぎる。それから歩を緩め、全身の重心を引き上げ、音もなく物生班の戸口に半分だけ顔をのぞかせて、なかの様子を窺おうとするのだった。猛哥にはさらに語り草となる美点があった。すなわち煙草がほとんど口を離れず、顔は雲霧に包まれて判然とせず、雄渾にして風霜を刻んだあばた面が、かろうじてぼんやり見分けられるだけだったことである。ある日、その班のひとりの生徒が勇を鼓して、校内では喫煙が固く禁じられているのになぜ意に介さないのかと問い質した。猛哥は軽蔑の笑いを浮かべて言った。「和午有管西?(おれに関係があるか?)」たちまち満場に、息を呑む音がひとしきり広がった。くわえて猛哥の声は洪鐘のごとく、隣の班での授業中にひとこと発しただけで、フロア全体が、こもった雷鳴の一撃にどっと震えた。わが班の後列でうつらうつらしていた数人はがばと目を覚まし、わが班の教師の怒声ではないと知ると、小声で二言三言ののしって、また眠りに落ちていった。
もうひとりの達人といえば、東どなり、物化26班の童先生をおいてほかにない。童先生のもっとも広く流布した名言はこうだ。「この班には大将になりたい者が大勢いると聞いた。その考えは捨ててよろしい。この班に大将はただひとり、すなわちこの童大将である。」この一言が放たれるや満座みな驚き、以来、あえて目上に楯突こうとする者はひとりも現れなかった。童大将と猛哥は意気投合し、同じ部屋に居を構えていた。扉を押して入れば、仙境さながらに立ちこめる煙のなかで、ふたりが煙草を投げ交わしているのがしばしば見られ、その狙いの正確さと力加減は、とうにプロの水準を超えていた。
高考を目前に控えたある日、童先生は教室で巨大な定規を振りかざし、目に獰猛な色を浮かべて言った。「今度の模擬試験では、試験のあとに答え合わせをした者がいたら、この棒でそいつの頭を叩く。」聞くところによれば、当日の午前、国語の試験が終わるや、その班の国語教師は顔を上気させ、国語の造詣に自信のある数人の生徒としばし語らったすえ、答えを大々的に広めてしまった。童先生は引っ込みがつかなくなり、公約はついに果たされずじまいだったという。
一中強化部の傑物・奇才は枚挙にいとまがなく、わたしひとりの筆の力では、順を追って描き尽くすことなどとてもできない。それはちょうど汪曾祺の言うとおりである。わたしはよその班の教師について、あまりに知るところが少ない。彼らをよく知る人が、この愛すべき教師たちをきちんと書いてくれることを願う。まことに、一中の多くの教師は、誰かの手できちんと書かれてしかるべきなのである。
(つづく)