
本文のまえに:
時間を光線に、人生をフィルムに喩えるなら、一年一年は人生というフィルムの一齣になる。歳月の推移は光を弱め、感度を下げる。だから時間の尺度の上では、過ぎた一年が生の全長に占める割合は減衰しつづけ、それにつれて記憶も次第にぼやけていく。
だが 20 年から今日までの四年間、私は一年ごとの烙印がフィルムにいよいよ鮮明に灼きつくのをはっきり感じている。二十三歳を思い返しはじめると、ひときわ澄んだいくつかの時点が、フィルムの中の銀イオンが潜像へ還元されるように立ち現れ、その明るい光斑は消しがたい定着液のごとく、フィルムの中心に灼きついている。
この一年、私は銀白のレトロなカメラを提げて歩き、ファインダー越しに、時の神クロノスの手から、永遠に変えてしまいたいいくつかの瞬間を盗み取ろうと試みるのが常だった。三月に花を拾って春を醸し、六月に流蛍が夏を染め、十月の稲の畦で秋を拾い、臘月の梅の梢で雪を嗅ぐ——人の世のひとつふたつの風が、私の十万八千の夢を満たしてくれる。今年のこのフィルムはいささか長い。もし心を静めてゆっくり現像していただけるなら、そのなかの無限の細部が、きっと余さず目に映るはずだ。
春 • 洪楼の一夢 • これより花の香しきりに夢に入る

洪家楼を離れてもう半年余りになる。目を閉じると、私はいつも身の外にもうひとつの身を得て、流れる時間の絞りの中に、たくさんの自分を見る気がする。20 年の夏の夜、七号楼の前、紫葉李と丁香のあいだの温もった石のベンチに座り、『新編日語』の本文を呟いている自分。21 年、最初のインターンでプロジェクト先を往復する車中、静かに《我离孤单几公里》に耳を澄ませている自分。22 年の初め、上海・淮海中路と思南路の角の古い洋館で、薄紅紫の空に向かって天窓の楓の葉を数えている自分。23 年、Riot Games の All Hands で、リーグ・オブ・レジェンドの旧サモナーズカップを敬虔にカメラで撮っている自分。盛夏の尽きない緑と紺碧のなかで深呼吸している自分……これらの重なり合う残像が、山東大学での五年の歳月に対する私の記憶の輪郭を形づくっている。

私は厳密な意味で母校を熱愛する良い学生だったことはない。むしろ一年生と最初の二年生のころは、どこか子どもじみた反骨をひけらかしてばかりで、高学年になってようやく、豚を装って虎を食らう老成で自分を飾ることを覚えた。それでも、商科で二年転げ回り、長袖よく舞う気質を帯びたはずの私が、山東大学との盛大な別れの儀式では、こらえきれずに目頭を熱くした。論文の口頭試問のあと、西門そばの洪家楼教会の大芝生で、両親のために一生の宝物になる写真を撮った。卒業の夕べには後輩の新代の広報カメラマンの入館証を借り、会場の内側から、見知った顔ぶれが次々と登壇するのを見た。彼らはロマンチックな舞台の光のなか、知新楼への最後のカーテンコールを終えた。この別離は、ひっそりとしたものではなかった。
私の学部は五年かかり、そのうち済南で対面だったのは三年だけだ。だが山東大学にまつわる記憶は、いまもたやすく呼び覚まされる。興隆山・天工湖の下の未修繕の石の小橋、ブルーアワーには映画のようだった白玉蘭路、午後の洪家楼六号楼を自転車で通り過ぎる老教授の金色に灼けた影、冬の公教楼わきの庭のまだらな木影に残る雪、印象城の下のグルメ夜市、卒業間際にようやく訪ねられた山大文創カフェ……視覚と聴覚だけではない。嗅覚も、触覚も、あの稚気の抜けきらぬ韶光と深く結ばれてしまった。

口頭試問前の最後のひと月、私は Riot を退職し、一年半ぶりに上海からキャンパスへ戻った。スーツケースを引いて五月のキャンパスを歩くと、一、二年生の子たちが、かつての私と同じように、パックした昼食とスーパーのフルーツ盛りを提げ、日傘を差して図書館へ向かうのが見えた。午後の寮の窓の外では緑陰が揺れ、心地よい微風に、干した洗濯物のラベンダーの香りがかすかに漂う。別れの時計がもう秒読みを始めたことを、私は知っていた。この瞬間から、山東大学でするすべてのことが、最後の一度になり得るのだと。
学部を出る前、インターンからインターンへと巻きに巻いていた私は、いくらか自惚れて、キャンパスの日常と高くそびえる象牙の塔に倦み、囲いの外へ飛び出して金融業界で野心を果たすことばかり急いていた。だが本当に千の帆を経て港へ戻ったその瞬間、鼻の奥はやはり酸っぱくなった。「旧を懐いて空しく聞笛の賦を吟じ、郷に到れば翻って爛柯の人に似たり。」ひとつの考えが不意に脳裏を訪れた——何年も経ってから、かつて暮らした洪家楼と山東大学に戻ることがあっても、そこにはもう、私の見知った友人はいないのだ。この庭園のような洪家楼は懐かしくて、そして見知らぬもので、美しすぎる夢境のようだった。当時はただ、それがあたりまえだと思っていた。
退去の前夜、久しく会えていなかった友人と印象城で済南最後の日本料理を食べた。寮へ折り返す道すがら、私は注意深く感情を抑えていたが、結局は決壊する涙をこらえきれなかった。感情の安定には自信のあった自分がこれほど取り乱すことに、あのときは驚いた。だが、ここまで書いてきて、目の縁はまた湿っている。
万葉は言う。楓の紅くなるころは、別れが多い、と。だが私のこのたびは春と夏の境目だった。スーツケースを引いて、西門そばの教会の芝生をとてもゆっくりと歩き、言葉を失うほど美しいあの景色を力を込めて見つめてから、洪家楼の守衛のおじさんに別れを告げた。おじさんは最後に私の肩を叩き、済南の言葉で笑いながら、また帰っておいでと言った。

「時の河は海へ流れ、ついに僕らは別々に歩き出す。君の顔をしっかり覚えておく。君のくれた五年を大切にする。」
三十分もあれば歩き通せてしまうこの洪家楼で、私は一木一草に馴染みきっていた。ただ、めぐり会えた恩師たち、同輩たちの善意と活力だけが、古い教学楼に日々みずみずしい朝の気を与えつづけ、そのおかげで私は、山東大学の門を踏み出すその瞬間もなお少年の意気のままで、なお取るに足らぬ熱意と希望を保っていられたのだ。
夏 • 獅城に学ぶ • 桐花万里丹山の路

夜の講義が終わり、NTU のスクールバスの後列、左側の窓に凭れて、ガラスを伝い落ちる水滴がガウスぼかしの線に繋がるのを見つめていた。車内の学生たちの映り込みは嵐に翻る海面のようで、後ろへ流れつづける巨樹の雨林の図景の上に漂っていた。イヤホンの中は趙雷の《我记得》——「身体より重い荷物を提げて、ナイル川の底へ泳ぎ入り、幾すじかの稲妻を過ぎて、光の輪の群れを見た。ここなのかどうか、確かめようもないまま」。低い声とドラムが、雨の律動にひそかに拍を合わせているようだった。これが、私のシンガポールの日々でいちばん深く刻まれた画面だ。

去年の私の最も暗い時間は、シンガポールに着いたばかりの七月末から八月初めだった。どこにでもそびえる巨樹、見知らぬ風土人情、左側通行という慣わしにさえ、私は急には馴染めなかった。チャンギ空港の次世代の設備がくれた新鮮さは、Jurong West の、頼る者ひとりない心細さにたちまち圧し潰された。
学制の延長も学部卒での就職も断念したあと、私の望みのすべては「入学即秋採用」に懸かっていた。この夏、私のプレッシャーはこうして人生に前例のない頂点へ達した。AE の課程は評判に違わず、カリキュラムも数学の難度も学部のダブルディグリーよりはるかに骨太で、そこにびっしりと詰まった秋採用の進行が重なった。ひと月近く、平均して毎日三つ四つの筆記試験を解き、二つの面接に出た。二晩か三晩、私は洗面もしないまま力尽きてベッドに倒れ込み、次に目を開けたときはもう明け方の四時か五時だった。瞳孔は焦点を結ばず、携帯のぼやけた「04:30」をぼんやり見つめて、自分がまだ人の世にいるのかどうか、一瞬わからなくなった。
シンガポールでの日々は瞬く間に大半が過ぎた。喜ばしいことに、私には帰属感も名残惜しさも毛ほども生まれず、代わりにあったのは心底からの安堵だった。Chew Soon Beng 教授のシンガポール経済学を一学期修めたうえでの愚見だが、シンガポールに最もふさわしい描写は「精緻な鳥籠」である。公民は飼われたカナリアのように、政策立案者の敷いた既定の設計に沿って、人生というゲームのメインクエストを一歩ずつ固めていく。
社会科学の視点から言えば、シンガポールの極端な合理主義は、実のところ現代経済学の本質と高度に一致している。すなわち、資源が限られた条件下でいかに社会厚生の最大化を追求するか、だ。国土の極端な希少さゆえに、シンガポールでは一本一本の道路、一画一画の商業区、一棟一棟の団地、果ては一つ一つのホーカーまでもが精緻に設計され、際限なく引き上げられた公共交通の優先度がそれを支えて、自国民の生活の質の下限をさらに確かなものにしている。同時に当局はマクロにおいて、数十年一日のごとくグローバル化と租税の窪地という戦略的position を推し進め、その結果シンガポールは、ソブリンファンドの対外投資、国家資本主義、多国籍企業の支部(GDP の四割)を主導とする、アジア域内でも独特の経済構造を実現した。
だが残念ながら、この島国にどれだけ留まろうと、私は一年じゅう湿って蒸す気候とはついに和解できなかったし、世界最高水準の物価、最低の食事の質、最強の高等教育マーケティング力、そして最も愉快な気候とやらに、何度も苦笑いを禁じ得なかった。アジアの主権国家としてのシンガポールは世界で最も豊かな国のひとつであり、マクロの答案は疑いなく満点だ。それは特異な地理、グローバル化という position、租税窪地の戦略と分かちがたく結びついている。ミクロの水準で、個体としての私にできるのは、卒業したら大急ぎで逃げ出し、必要のない限り近寄らないことである。
顧城は言う。時計は、教会に棲み、静かに時刻の種を齧っている、と。南洋留学の、古井戸のように波立たない日々にも、歯と頬に香りの残る時間の瓜子が二、三粒はあった。たとえば今期の Worlds で、e スポーツのプロ選手たちが見せてくれたこの一課。十一月、私は億万のリーグ・オブ・レジェンドの観客とともに、Faker 選手が王座へ返り咲き、四つ目のカップを掲げるのを見届けた。「大将生まれながらにして胆気豪、腰に横たう秋水雁翎刀」——彼は議論の余地なく、最も高い山であり、最も長い河である。堅剛にしてその志を奪うべからず。十年を一日のごとく貫く集中と純粋、パッチへの適応、試合を楽しむ心、勝利への渇望。李相赫を透かして思う。運命という劇作家が人々に配る台本は、まったく妙の極みだ。デビューが即ち頂点で、少年英雄が功成り名を遂げ、剣を抜いて四顧し心茫然たる者がいる。生涯を蹉跌のうちに過ごし、老いてから頂に立って衆山の小なるを一望し、流離の果てに栄誉の贈り物を受け取る者がいる。そして、もっと多くの人は一生が悔いのままだ。Riot にいた日々、私は多くのプロ選手を見てきたが、無数の観客や業界人と同じように、自分のリージョンにもこんな道標のような人物がいてくれたなら、と何度願ったことか。e スポーツの精神で、観戦する無数の子どもたちを本当に励ましてくれるような。
雨季のある夕暮れ、外気温が二十四、五度まで下がると、私はあてもなく緑のラインに乗り、浦東新区よりすこし小さいこの国で、一年の厚みを足で測った。歳末のクリスマス、セントーサの浜辺で、遠くない貨物船に向かって小さく口笛を吹いた。Star Vista の人工の雪のなか、《Jingle Bells》に合わせて浅く手を振った。年越しはマリーナベイで「東風夜に放つ花千樹」を観て、見上げることのロマンに嘆息した。こうした時間のおかげで、私はふと、この島国がそれほど嫌いではなくなっていた。

いま NTU での一年に句点を打つのはまだ早すぎる。ならばこの節の最後は、十一月に書いた小さな詩で締めくくろう。
世界が怒濤で私を葬ろうというなら、
私はあえて鬱蒼たる尽きない緑になる。
百年あくせくと、なお余生は息まず、
巨樹と 港と 灯台と 夕陽とともに。
秋 • 秋採用に夢叶う • 時禽伴を得て新木に戯る

転専攻のあと、私の学部生活はほとんどずっと、異なるキャリアパスの探索に費やされてきた。何度もレーンを乗り換える多くの商科生と私が違うのは、私が同時に、深い穴からゆっくり這い出してきた「伝統工学生」であり「マイナー言語人」でもあることだ。この道は幾度も涙が出そうなほど険しかった。幸いこの三年、私は道を急がず、道そのものを感じつづけてきた。道すがら多くの人と多くの事とはぐれてしまったが、肉親のほかにただひとつ、始めから終わりまで私に寄り添ってくれたのは、あの夢の会社のゲームだった。
いまも鮮明に覚えている。鍾離の《说书人》の水墨とロックの視聴覚の衝撃。《白鹭归庭》のピアノの調べのなかで翩然と舞う神里綾華。ふたつの神の目を束ねて、雷電将軍の無想の一太刀を受け止める万葉。ヴァナラーナのアランナラたちがともに奏でる、大人に宛てた童話《大梦的曲调》。これらのハイライトは散らばった星々のように、この壮麗なテイワットの星空を繋いでいる。

あの会社の面接の知らせを受け取る前、私はモーメンツにこんな一段を書き、多くの友人の共感を呼んだ。
「私個人のキャリア探索の道筋は、金融からゲームへと徐々に転じてきた。その過程で、ゲーム業界を唯一の就職の方向とすることをはっきりさせた。第九芸術としてのゲーム業界は、文化エンターテインメントにおけるもう一隻の空母と言ってよく、プロダクトそのものを超えた意味を載せている。そこに含まれる文化記号と価値観は、国門を出た私が限りない自信を覚えるよりどころだ。
「Uchi での交換留学でも、日本の友人との雑談でも、シンガポールでの学びのなかでも、私は中国のゲーム会社の国際的な影響力を感じてきた。あなたがたが上海で作る芸術品は、世界の裏側にいるプレイヤーへ本当に喜びを届けている。これは他の業界が私にくれたことのない感動だ。」
これが私の秋採用の最初のオファーであり、唯一行きたかった夢の会社、運命づけられたプロジェクトチーム、最も噛み合ったポジション、家にいちばん近い都市だった。すべてが、現実味を失うほど美しかった。

私の受信箱には、異なる履歴書を添付したメールが何通も横たわっていて、最初の手探りの挑戦から、最後に夢が現実へ照り込むまでを記録している。この時間は、まるまる二年八か月に跨っていた。2020 年の末にテイワットへ足を踏み入れて以来、身はなお金融業界に浮き沈みしながらも、ゲーム業界に入ることはずっと、口に出せない脆い願いだった。不思議なことに、九月から十月の私のモーメンツは、この秋採用を宿命感と叙事詩の質感を帯びた重厚な映画のように生き、Deft(金赫奎選手)の S12 における最後の舞いのようでもあった。これは私の生涯でただ一度の機会で、幸いにも、私はそれを取り逃がさなかった。
ゲームへの愛はたぶん、幼いころから遺伝子に刻まれていた。小学生の毎週金曜の夕方、私は時間どおりパソコンの前に座り、『赛尔号』のアップデート配信を待った。「4399 攻略組」の一員として、『ソードアート・オンライン』の血盟騎士団のように最前線で新しい戦法と発想を切り拓き、全プレイヤーの探索を推し進める。あのころの私は、数千万の子どもたちに面白い星間冒険を定期的に届けられる淘米のプランナーたちを、しばしば羨んだ。いまの子どもたちも同じように、週末にしか、三時間しかゲームの時間を持てない。私たちゲームの作り手には、この貴重な三時間のうちに、できる限り壮麗な童話を子どもたちへ書いて見せる社会的責任がある。楽しさのコストが低く、一試合ごとに無限の遊びが成り立つ自社の PVP・e スポーツのスマホゲームを、金集めの唯一の切り札にするのではなく。
なぜなら私たちは、始めから終わりまで童年に守られているからだ。子ども時代の美しいものが、世故に長けてしまった大人たちの私たちを守っている。孩提のころに受けた多面の教育が、私たちを岐路へ迷い込ませずにいてくれる。この繊細で貴重な記憶の糸はいつか忘れられるかもしれないが、「森はすべてを覚えている」。最も深いところに潜むこれらの底色は、脆くとも揺るがぬ一生を支えるに足る。
こんなに未来への憧れに満ちるのは久しぶりだ。私は首を長くして待っている。上海のあの面白い魂たちとともに、あらゆる年齢のプレイヤーが味わえる童話を創る日を。遊べて、触れ合える、このアニメーションの連作こそ、私が内容志向のスタンドアローンゲームに心酔した最初の動力であり、大人になって初めて深く理解できるこれらの童話は、そっと私に言い含めもした——愛してもいない業界で、米や油のために夢を売り歩いてはいけない。慎重に考えなさい。私たちはいったい、何のために出発を選んだのか?
今度の帰国で、「技術オタクが世界を救う」と印刷された灰白色の冒険補給箱をこの手で開けたとき、口角には抑えようもなく、複雑な笑みが掛かっていた。ずいぶん長い道を歩いてきた。ようやく、夢を円かにできる。

花鳥の一趣を拾い、月風の長路を照らす。四方を遊歴した万葉は、いつか小さな白猫と友の神の目を携えて、璃月へ帰るのだろう。
ありがとう。臣民に許された、ひとつの夢よ。
冬 • 間章 • 春江を過ぎてふと首を回らす

年の瀬のこの時間は、しばしば大学入試を終えたばかりのような錯覚をくれる。天心に月満ちて水面に風、一笑すれば春は揚子の潮に生ず。秋採用が幕を下ろすと、朱慶餘の「画眉の深浅、時に入るや無や」というかすかな不安はいつのまにか解け、そのぶん、流れる年月の温かさ、人の世の煙火の沈香、時節の風物の清らかさを、いくらか多く感じ取れるようになった。
夢が叶うというのは、たぶん、星が月光を追いかけるようなもので、月光は偏りなく、重すぎず軽すぎず、星たちの真ん前へ落ちてくる。私はここのところ、むしろ以前より茫然と喪失に似たものを覚えている。全身の細胞が急に弛み、果てのない疲労が心身から糸を引くようにゆるゆると抜けていく。大事が終わった軽やかさもなければ、昼夜を継いだ放縦もない。ただ、顔を上げて空を見るとき、この世界がずいぶん違って見えて、私ももう、五、六年前の私ではないと思うだけだ。
キャリアの始まりを定めたあとも、私は学び、本を読みつづけるだろう。だがそれは、この数年のように、上がりつづける GPA と金看板を積んだ履歴書に勝つためではもうなく、ただの興味の赴くまま、あるいは子ども時代の知りたがりを満たすためだ。神も人も憤るほど巻き続けなければ自由を得られない、と考えなくてもいい。心の向かうところを追い、哲思の真諦を尋ねればいい。これまで、翱翔し嘹鳴する渡りの鴻を見るたびに憧れを覚えたが、自由が本当に不意打ちで身辺へ躍り込んでくると、私はいくらか狼狽し、それ以上に望外の喜びに包まれた。これからは過去の数十年のように、休みなく、戦々兢々と、失敗の許されない一本橋を渡りつづけなくてもいい。清らかな山河へ、古寺の禅心へ、英国の古城へ、碧波の大洋へ——この世界と、この世界に生きる面白い人々を、見に行けるのだ。

この二つとない時間のなかで、私は初めて荷物をまとめ、ひとりで異なる国々を旅した。経緯線のロマンを横切り、落日の橘の海へ駆けつけた。だが、知る人もなく言葉も通じない異郷では、強い不安に襲われもする。まるで一個の惑星が、自分のものではない恒星系へ漂流してしまい、軌道も重力も一から慣れ直さねばならないように。私はずっと、この孤独な惑星に属する淡い寂寥が好きだった。去年はこれを INTJ の逃避傾向と書いたが、いまはむしろ、まるで異なる他国の文化へ溶け込もうと試みることこそ、人生経験の大切なピースだと思っている。
同時に、ようやく時間ができて、個人の映像ライブラリをいじりはじめた。うちの会社では誰もが一家言あるエヴァを補習し、長年積んであった高評価の日本ドラマと海外ドラマを見終え、ついでに割引で買い込んだ PS5 の名作スタンドアローンを一本ずつクリアした。これらの光怪陸離の世界のなかで、私はいくつもの人生を見た。林語堂先生は言う。「現在行い得る楽しみを領し、平生読まざりし書を補う。」画面の外の無数の繁華に向かって、私は口元だけで微笑んだ。まことに、天高く鳥の飛ぶに任せる、澄み渡った大空に至ったのだ。
胡蘭成先生の言葉を引いて結びとしよう。
「これはあたかも、開き尽くせぬ春の花・春の柳が前の川に媚びるがごとく、聴き尽くせぬ杜鵑の紅を啼く水の潺緩たるがごとく、経巡り尽くせぬ人語と鞦韆の深き院のごとく、ああ、望み尽くせぬ門外天涯の道、凭り尽くせぬ楼前十二の欄干のごとし。」

春 • カメラ漂流 • 願わくは天風を借りて遠くへ吹かれん

憧れの拉導が向かいに座り、千万のフォロワーが心待ちにしていた、あの稜角の際立つハッセルブラッド X2D を取り出して、全球カメラ漂流の第一站の機主である私へ鄭重に引き継いでくれるのをこの目で見るまで、私は長く続いた非現実感から抜け出せずにいた。この時期、友人たちが私から最もよく聞いた一言は「私なんかでいいの?」だった。

東風雨を吹いて青山を過ぎ、却って千門を望めば草色閑かなり。写真という趣味は、三年半前に振りはじめた枝のスキルだ。小さな町の解題屋だった人生の最初の十九年、ゲームと書くことと歌うことのほかに、私にはほとんど趣味がなかった。写真に正式に触れてから、私は学内メディアの撮影チームから始めて、撮った写真がまず大学の公式アカウントに載り、ついで山東大衆日報に掲載され、さらに視覚中国のクリエイティブ契約に至った。愛する真新しい領域で、私はついに、私らしい「多段跳び」を再演したのだ。
撮る人になってから、世界の眺め方に面白い変化が起きた。視界のなかの光、形、色、質感、人の営み、建築に、ふと気づいては足を止め、シャッターを切るようになった。写真が私にとって持つ意味は、手を伸ばせば届くのに値のつけられない美——煙火、山水、喧噪、静默——を定着させることだ。これらの美の器は、大切な瞬間の記憶を永遠の場面にしてくれる。二百年前なら、時間をこのように止める能力は魔法と見なされただろう。二百年後のいま、写真は人々が感情を込めて生を記録するための必需品になった。
写真は内容がつねに形式より重要だ。意味は技巧よりはるかに深いからで、時間と空間の相対性と同じように、意味と価値もまた相対的であり、人は直感によって、世界じゅうから来た写真を味わうことができる。これこそカメラ漂流がもたらし得る、文化の隔たりを越える文明の紐帯なのだろう。第一站の機主として、この全球規模の叙事詩的な社会実験に参加できたことは、私にとってこの上ない意味を持つ。
去年までの私は実はソニーのユーザーだったが、色とディスプレイの二重の責め苦を味わい尽くしたすえ、深く悟った。日々の外出に持ち歩きたくなるカメラだけが良いカメラである、と。かくして私は迷いなくソニーを捨て、身を翻して富士フイルムに入門した。数字の変化は歴然としている。ソニーを持っていた三年半でシャッターを切ったのは合わせて一万回あまり。富士を使ったこの一年で、私は三万枚近くを撮った。富士の XT 系は外観から操作の論理までフィルムカメラによく似ていて、絞りリングや ISO、シャッター速度を回すと、精密な金属の触れ合う音まで聞こえる。この全手動の機械操作は効率こそやや低いが、心を止水のように静め、歩を緩め、フロー状態のなかで一枚一枚の意味を考えさせてくれる。この一連の撮影体験そのものが、人を惹き込んでやまない。
だが残念ながら、ハッセルブラッド X2D の冷たく鋭い手触り、「先に撮って後で構図する」中判の解像力、極上に滑らかで親切な操作画面を身をもって味わってしまったいま、私は百戦を経たまる一年ものの富士のために、収納場所をもう見つけてある。(笑
友人は言う。おまえのこの数年は夢のようで現実味がない、と。勧退の工学から決然と走り出し、マイナー言語から迷いなく渡り、商科から紆余曲折してレーンを換え、体型管理では四十斤あまりを減らし、最難の採用季に最良のオファーを取り、カメラを提げて多くの国を踏み、憧れの人のカメラ漂流の使命を担った。まだ遠ざかりきらない二十三歳と、ほの見える二十四歳のあいだで、私は『ハリー・ポッターと死の秘宝』の白いキングズ・クロス駅に立って、一輛ならぬ蒸気機関車に乗り込み、軌跡の異なるいくつもの人生をくぐり抜け、曲折して豊かな一幕の正劇を生きたかのようだ。
先だって、自分の人生映画トップ 10 を並べてみた。慎重に吟味したすえ、第一位に堂々座っていたのは新海誠の『君の名は。』で、この予想外の結果は、ある意味で驚くほど筋が通っていた。高二のとき、私はこの映画の豊かな文化的内包を消化するのにまる一週間を要し、それがのちに日本語専攻へ転じる核心の動力になった。特筆すべきは、最近ギターを猛練習していて初めて知ったこと——私のいちばん好きなギター独奏《Like A Star》の着想が、まさに君の名は。から来ていたのだ。三葉と瀧は食い違い、平行する時空を生き、黄昏のときにだけ会うことができる。星空の下、糸守町の隕石湖は晩霞の残光を映して、造物主の瞳のようだった。澄みきって、しかし一片の憐憫も帯びずに。この二年の私の年間トップ 10 の音楽で、この指弾きの曲はまるまる六席を占めている。
願わくは来年のいまごろ、作曲者・金永所の心境で、静かにうつむき、流れる感情を弦の上へ、星のようなハーモニクスとして注ぎ出せますように。
終章:
人生の平凡の道の上、どこが終点なのか。「渇を留めて井を穿ち、掻くを予して痒きを待つ」——それができる人が、いったい幾人いるだろう。
e スポーツ小説は優勝を書き、金色の雨のなかの抱擁を書き、光を満載したカップを掲げるさまを書き、泣き笑いの功成りし祝勝の酒を書けば、あらかた結末だ。だが現実に目をやれば、悲しいほどに寒い。優勝した者たちは天涯に散り、抱き合った者たちはもう同じ道を行かず、カップを掲げた者たちは戦場で刃を交え、あの祝勝の酒を飲み干したあと、二度と一緒にいられなかった者たちもいる。
記念の誕生日の文章は、夢の成就を書き、念々忘れざれば必ず響き有りと書き、薄氷を踏んだ十数年の苦尽甘来を書き、信じられぬ思いのあとの平淡な幸福を書けば、あらかた結末だ。時代の波の車輪が転がるなか、いくつかの悔いはおそらく必然だろう。私たちの見知ったすべてが、沈黙のうちに、あるいは轟音とともに前へ進んでいくとしても、私たちの惜しむあの一瞬は、個人の栄光でもあり得るし、家国への帰属でもあり得るし、不朽の里程標でも、未来へ語り継がれる小さな伝説でさえ、あり得るのだ。

21 年の中秋、逐月節の「逐月」の二字に鍾離が与えた釈義が、とても好きだ。
「頭を挙げて明月を望めば、万般の感懐みなその中に在り。この情この景、天の星の我を照らすがごとく、願わくは月華を逐わん。故人の恩に感じ、旧友の情を承け、千古の意を追い、千秋の城を環る。以上の種々、これを『逐月』と謂う。」
私の人生の最初の二十四年の旅は、今日までの序章であり、一場の壮大な逐月である。この旅路にもいつか終点は訪れる。急ぐことはない。
雲月さん、二十四歳のお誕生日おめでとうございます。
初出は WeChat 公式アカウント「倦默轩」(2024-03-06):原文