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No.001

衆人のために薪を抱く者を、風雪に斃れさせてはならない。

中国語原文からの翻訳 — 原文を読む

夏休み興行のさなか、『我不是药神』を観て帰宅し、眼鏡を外してソファーにぐったりと身を沈め、微信のモーメンツを繰っていた。すると思いもかけず、同時期の大ヒット作『动物世界』を観終えたばかりの女友達が数人、興奮冷めやらぬ勢いで花のような若手俳優だの、当世風の美男だのを熱烈に褒めちぎっており、その言葉の端々には、クリームとポップコーン派の美意識への断固たる支持があふれていた。

『动物世界』と『我不是药神』は、かつての『小时代3』と『平凡之路』さながらに、映画作品へ向き合う二つの心の持ちよう、観る映画の好みに表れる二つの審美眼、人生の道行きに処する二つの境地を映し出している。大衆の審美眼がしだいに後者へ傾き、この種の現実に材を取った作品がようやく一般大衆の視界へ入ってきた今、それでもなお『动物世界』のごとき仮想の狂宴を選ぶのは、おのれの美意識への蹂躙であり凌辱なのかもしれない。

以上はあくまで、今日の映画市場についての浅はかな私見にすぎない。豆瓣のある短評を引いておく——「これほど正面から現実を撃つ映画は、一本でも多いほうがいい。一歩でも進めば、それでいい」。大学入試を終えたあとの長い休みの日々、仮想の時空と饐えた蒲団に日がな一日溺れているくらいなら、青春の墓穴から這い出して、この社会の現実を、そして世界の人々が世界を変えるためにどれほど義に厚い振る舞いをしてきたかを、その目で見てみてはどうか。

観ている最中、この映画の矛先が指す社会の病弊をはっきりと感じ取ったとき、暦はまだ「七月流火」(『詩経』にいう、火星が西へ流れて涼気の兆す頃)でもないのに、炎暑のさなかで私はひとすじの冷たい戦慄を覚えた。『我不是药神』の真の成功は、批判の矛先を特定のどこかの社会集団へ明確に向けなかったところにある。人間社会まるごとの複雑さに支えられて、どの側もそれぞれの次元における道徳の高みに立ち、一面的に見えて実はどうしようもない、あの正義をめいめいが手にしている。徐峥の賢さは、ただ一つの物語を簡潔に語りきり、責任の裁定を丸ごと観客へ投げ渡した点にある。社会の各層がそれぞれの判断を下し、視座が違えば体験も違う。ただ一つ同じなのは、誰もが雨のごとく涙を流したことである。

程勇は月々数十万元の赤字もいとわず全国の患者を救おうとし、密輸という違法行為でありながら、その行いには大衆の感謝と敬服が寄せられた。曹斌は法の執行者という鉄面の高地を占めながら、勇士へ寄せる共感を抑えがたくにじませ、男気の本能と職業倫理が激しくぶつかったとき、心理の強靭さでは並ぶ者なきはずの警官でさえ、この事件から手を引くと告げるほかなかった。そして病人が苦渋と諦めを湛えて放つ一言——「病人のいない家などありましょうか。あなたは、自分がこの先病気にならないと言い切れますか」——が魂の奥底を直撃し、全編に仕掛けられた涙の爆点へ順々に火を点けていく。

劇中でほとんど唯一の悪役といえるのが、スイスの製薬会社と中国代理店の奸商である。彼らはあたかも、あらゆる邪悪の面構えをさらけ出した諸悪の根源であるかのようだ。金縁眼鏡の代理商が、偽薬は人を害する、必ず一瓶四万元の正規薬を買うように、と繰り返し説き立てるとき、観客の怒りもまた唯一のはけ口を得たかのようで、資本主義の腐臭は一点に凝縮され、憤怒は発散され、問題までもが確かに解決されたかのような心地になる。

だが、問題は本当に解決されたのだろうか。奸商は、薬品市場全体の非難と叱責を一身に受け、その上「生命を重んじない」というレッテルを狂ったように貼りつけられて然るべきほど、本当に奸悪なのだろうか。劇中の製薬会社側弁護士の弁論を引こう——「患者の命を真に救ったのは、やはり正規薬の処方なのです」。統計データによれば、新薬一つの開発には20億~30億ドルの費用を要する。先発薬の特許保護期間はおおむね10年~20年で、製薬企業に市場独占の機会を与え、十分な利益を稼がせなければ、企業が新薬開発を続ける意欲はまず保てない。ひとたび新薬の研究開発が止まれば、より多くの新型疾患が有効な医療技術による治療を受けられなくなる。そのとき世界規模で生じる人的損失は、程勇の代理購入が救い得た数千人の比であろうはずがない。さらに言えば、映画の中で問題解決へ一時の筋道をつけるために、生贄の役どころを負う商人はおのずと生まれるべくして生まれたのであって、現実には商人の得る利益は決してこれほど高くない。幾重もの転売と幾重もの関税が、とうに販売価格を見る者の足がすくむほどの水準へ押し上げているのだ。薬学専攻のある学生は言う——「陆勇事件は、私たちの薬事管理学ではしばしば議論になる課題です。生命権と特許権、いったいどちらが重いのか——この問いには、私たち自身も正確な答えを出せずにいます。これからの製薬業の発展は特許権にかかっていますが、薬は特殊な商品であって、その目的は人を救うことにあります。薬と倫理——悩ましいものです」。

ここに至って見えてくるのは、『我不是药神』が提起する社会問題が、『辛德勒的名单』のような絶対的正義をひたすら掲げるものでは決してなく、複雑な社会現象の三次元ホログラムだということである。是々非々の一切は、鑑識眼を持つ観客へそっくり引き渡されている。

それでもなお、当今の多元的な価値観は、程勇の所業を鼻で嗤う少数の人々を必然的に生む。大我を犠牲にして小我を遂げる行いだ、法を顧みず情のみで動く幼稚な理想主義の訴えだ、というわけである。なるほど、これは人類史上もっとも深遠な命題の一つではある。だが本質を言えば、程勇はおそらく、素朴な願いを抱き、目の届く限りの世界を少しでも良くしようとした一人の男にすぎない。その上へ数え切れぬシニシズムの命題を押しかぶせるのは、いかにも度を過ごしている。

劇中には解せない場面が一つある。程勇が殺虫剤の煙のただなかで目にする神像は、左手に武器を、右手に首級と一つの碗を携えている。実はこれ、インドの神・迦梨(カーリー)である。迦梨はかつて悪魔と闘ったが、悪魔の血は地に滴ると、また新たな悪魔と化してしまう。迦梨はやむなく碗を捧げ持ち、悪魔の血を受け止めた。程勇が再び薬を売りはじめるとき、彼はまさしく病魔と闘う神であり、多くの人の希望をその手に捧げ持っている。(「迦梨」に関する知識は豆瓣からの転載、問題があれば削除する)

『三体』が繰り返し強調する一点のとおり——生存は当たり前のことではなく、一つの幸運なのである。だが、程勇のような人があなたのために重荷を負って歩き、衆人のために薪を抱きつづけて、幾千幾万の平凡な人々を穏やかな温室のなかに生かしているのなら、雪の中へ血の混じった足跡を残していく彼らを見つめながら、われわれは銘記しなければならない——

衆人のために薪を抱く者を、風雪に斃れさせてはならない。

文末に掲げるのは、『我不是药神』のプロモーション曲『只要平凡』——その旋律は、心臓をまっすぐに撃ち抜いてくる。

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